一般社団法人 グローカル政策研究所

阿部孝則の『寡黙な麻雀王者』

第20回連載

2007年の7月に発足した当初のRMUは会員50名ほどのそれは小さな団体でした。
当時はアスリートコースの他に一般向けのライトコース、個人協賛枠のVIPコースそしてタレントを育成するためのタレントコースがありました。

初年度はプレオープン的に運営されることになったため主戦となるリーグ戦は行われませんでした。
代わりに芸能界一強いと言われていた萩原聖人さんを招待選手としてエキシビジョンマッチを行いました。
こちらは放送対局ができる環境はまだ整っていなかったためホームページ等で発表されるのみとなりました。
また他の公式戦としては会員のみ参加できるオープンリーグが開催される程度の小規模なものでした。
このオープンリーグはシステム的にはリーグ戦と一緒ですがクラス分けされていないところがリーグ戦とは異なる点になります。
私は幸いにもこの記念すべき第1回オープンリーグで優勝を果たしています。
また当時は会の予算が当然のように厳しいものでした。
ですから試合の時は選手と運営を兼任しなければならない上に運営手当ももらえないような状況でした。
また放送対局は現在のように普及しておらず一部のメディアで行われるのみでした。
ですから試合の際は記録を採るための道具や運営に必要なペーパー類等かなりの重量の荷物を試合会場に持って行かなければなりませんでした。
私もこの荷物を持って試合会場に行っていました。
そして受付などの業務をした後に試合をし、試合がら終われば後片付けをするという事を何年もやってきました。

2008年からいよいよリーグ戦が始まることになります。
過去の実績や直近までの所属リーグ等を踏まえてライセンスが発行されクラス分けがされました。
私自身はS級ライセンスを頂きます。そしてRMUで競技選手としての新たなスタートを切る事になります。
当初は令昭位戦という名称ではなくトップリーグのことをRMUリーグといいその下部リーグをR1リーグ、R 2リーグという名称で呼んでいました。

2009年に姉妹団体である日本麻雀機構が解散に追い込まれることになってしまいます。
理事長と出資者の間でトラブルがあり折り合いがつかなくなってしまったためです。

これに伴いRMUから土田さんと古久根さんが脱退します。
トップリーグのRMUリーグは3人になってしまいRMU自体も存続の危機に直面してしまいます。
ここで2010年のRMUリーグをどうするのか当時のRMUリーグの3名である多井さん河野さん私を中心に藤中さんや当時の事務局長などを交え話し合いが数日かけて行われました。
案1は人数が揃うまでRMUリーグはお休みするというものを。
案2は黒子を入れて開催するというもの。
案3はシステムを変更し今いるA級、B級ライセンスを繰上げてRMUリーグに編成してしまうというもの。
まず案1の人数が揃うには、S級ライセンス以上の者が1人増えるかB級かA級ライセンス保持者がクライマックスリーグで優勝するという方法があります。 
このクライマックスリーグというのはR1リーグの上位者とRMUリーグの3名で2日間に渡り半荘10回戦を行い優勝者を決めるという年末のグランプリ的なタイトル戦です。
しかしこのタイトル戦は、R1リーグで好成績を収めた上にS級ライセンスを全員倒して優勝しなければならずRMUリーグ入りを目指す者にとってかなりハードルの高いものになっていました。
なので来年になればRMUリーグの人数が必ず揃うというあてもなくいつRMUリーグの人数が揃うのかわかりませんでした。
案2は麻雀は3人では出来ないため黒子と言われる勝敗、成績に関係しないという前提の者を補充し無理矢理4人にして麻雀を行うというもの。
これは試合中に急な病気やケガなどにより欠席者が出たときに使われるいわば応急処置のような方法です。
しかし黒子の立場は難しく、黒子の打牌により結果が大きく変わることも当然あり、批判の対象にもなりかねないこともあります。
案3が1番簡単な方法ではあるのですが、当時のS級ライセンスとA級、B級ライセンスの間には相当な実力の差がありました。
なので人数が増えるのは良いが血を薄めてまでもそうするのは違うという考えが私たちの中の多数派ではありました。
最終的に案1か案2で最後まで意見は別れましたが、リーグ戦を休んだときのブランクを考えると黒子を入れてでも開催したいという意見が多く案2で開催されることが決定します。
こうして各者の思惑が交差する中、曰く付きとも言える第2期RMUリーグは開催されます。
私はそんな中第2期RMUリーグを優勝することになるのですが、この時の心労からか試合内容はほとんど覚えていません。
そして残念なことに清々しい気持ちの良い優勝とはならず、少し後味が悪いものとなってしまいます。

そしてRMUの窮地はこれで終わったわけではありません。

ただでさえ新しくできたばかりの団体な上に日本麻雀機構の解散及びRMU上層部の脱退というトラブルが続き人材不足を露呈しネガティブなイメージを周りから持たれてしまうのことになります。
また他団体に比べ人数だったり予算であったり劣る部分が多く尚且つ世間的知名度は無いに等しい状況でした。
更にこの頃は会員数が著しく増えることはなく増えては減りを繰り返していました。
しばらくは後進の育成や人材の補充が急務とされる一進一退の時代が何年も続くことになります。

第21回連載へ続く...

COLUMN

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