一般社団法人 グローカル政策研究所

阿部孝則の『寡黙な麻雀王者』

第14回連載

前回リーグ戦について少し解説したと思いますが、そもそも競技プロ団体とはいつ頃から存在していたのでしょうか。
またどのような経緯で現在のような形になったのでしょうか。
今回はそれについて少し掘り下げて解説していこうと思います。

今流行りのMリーグですが、そのMリーグ機構が認めている競技麻雀プロ団体は5つあります。
これはこの5団体に所属していなければMリーガーにはなれない、指名がかかることはないということになっています。
しかしこの5団体も元を正せば1つの団体でした。
1976年最高位戦日本プロ麻雀協会が設立されます。
中心となったのは小島武夫や灘麻太郎というような面々です。
この頃阿佐田哲也の小説麻雀放浪記が大ヒット、更に阿佐田哲也は小島武夫らと麻雀新選組なるものを結成します。
また小島武夫が大橋巨泉の11PMで麻雀のイカサマ技を披露するなど、この頃史上空前の一大麻雀ブームが巻き起こります。
この時の麻雀人口は1200万人を超えていたとも言われています。
これは囲碁や将棋に比べてみても圧倒的な数字でした。
しかしプロ雀士には囲碁や将棋の棋士のような社会的なステイタスは認められていませんでした。
おそらくですがプロ競技麻雀団体が作られた大きな目的として社会的地位の向上や競技としての麻雀の普及、何より囲碁、将棋界に並ぶ世界の構築があったと思われます。
しかしながら理想と現実というものなのでしょうか、当時人気となった麻雀はギャンブル、イカサマ、裏社会といったイメージをより決定づけることになり、囲碁、将棋とは全くかけ離れた世界観が定着していきます。
そうなると企業や新聞社などのスポンサーはつきにくくなり、クリーンな競技麻雀の普及とはとてもではありませんが程遠いものになってしまいます。
この過去の影響は現在においても払拭しきれていないと私は感じています。
方向性の違いからなのか大人の事情なのか最高位戦発足の数年後に小島武夫らが脱退し日本プロ麻雀連盟を設立します。
そして私は20歳になり日本プロ麻雀連盟の門戸をくぐります。
私がデビューして間もない頃なんと日本たばこ産業と味の素がスポンサーとなりマイルドセブン杯というF-1形式のタイトル戦が開催されることになります。
出場できるのは最高位戦と連盟のタイトルホルダーに匹敵する選ばれた数名でしたが、F-1のように全国各地を回り開催される公式戦のほかにファンとの交流イベント、またラスベガスでも開催されるなどかなりのスポンサードを受けていたと思われます。
しかしながらこのマイルドセブン杯は一年のみの開催に終わってしまいます。
この時はかなりの小僧であった私でさえ何をしたら一年で終わってしまうのか?思ってしまう非常に残念な結末になってしまいます。
私が鳳凰位になった頃に日本プロ麻雀連盟にはKONAMIという大きなスポンサーがつきます。麻雀格闘倶楽部というアーケードゲームです。
団体にとってKONAMIのような大手のスポンサーの存在はかなり大きく、団体だけでなく所属選手にとってもかなり優遇される面が多く団体の発展や団体運営も容易になっていきます。
更に数年後に井出洋介が最高位戦を脱退し麻将連合μを設立します。
そこから更に数年が経ち土井泰明、五十嵐毅らが最高位戦と分裂し多数を率いて日本プロ麻雀協会を設立します。
ここまでで最高位戦は実に4団体に分裂していることになります。
そして最後に日本プロ麻雀連盟と最高位戦から土田浩翔や多井隆晴と共に私達がRMUを設立し現在の5団体になります。
思えば個々の理念や理想があり方向性の違い故の分裂なのだとは思いますが、今尚1つの団体であったならどうようになっていたのでしょうか。
組織であれば致し方ないことなのかもしれませんし、もしかしたらMリーグもできていなかったかも知れません。
このように麻雀界全体においてかなりの遠回りをしたと思いますが、ようやく近年ではクリーンな競技麻雀の姿がクローズアップされるようになってきました。
麻雀を通じ私達ができること、していくべきことは何なのか?それを追求し実践していかなければならないのです。

第15回連載へ続く...

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