一般社団法人 グローカル政策研究所

阿部孝則の『寡黙な麻雀王者』

第3回連載

日本プロ麻雀連盟の第5期生となった私達は、研修を経てまずリーグ戦に参加することになります。
リーグはB2、B1、A2、A1と4クラスに分かれておりA1がトップリーグとなります。
リーグ戦は1日4半荘を行いそれを一年をかけ計10節行います。
半荘とは麻雀特有の呼び方で1半荘が1ゲームということです。
40半荘を行いその成績により各リーグの下位と上位が入れ替わります。
この昇降級を繰り返し上位リーグに上がっていくわけです。
私達は最下位リーグのB2からスタートするわけですからトップリーグのA1に辿り着くには全てストレート昇級の最短でも丸3年かかるということになります。
道のりは果てしなく長いようでもあり、そう遠くないようにも思えます。

リーグ戦がメインの活動となる一方で自団体や他団体が主催するタイトル戦にプロ予選から出場できるようになります。
更に新人には採譜という記録係の仕事を任されます。
タイトル戦の準決勝や決勝、A 1リーグの記録を残しておくためです。
放送対局のなかった当時はこの牌譜を元にその局を再現し考察や議論、研究をしたものでした。

当時週刊大衆という雑誌が名人戦という麻雀のタイトル戦を主催していました。
出版社が主催するタイトル戦とあってその本戦はホテルの大広間に麻雀卓を持ち込み、芸能人や著名人、作家など多くの有名人を招待し派手に行われていました。
その模様は何週にもわたり記事にされるため優勝すれば一躍有名になれるチャンスでもあります。
その本戦には安藤さんも出場します。
試合の数日前には安藤さん小川さん私とでいつものごとく居酒屋で飲んでいました。
私達も採譜係として招集されていたので、安藤さんは『はじめての採譜は大丈夫か?頑張れよ!』そして『まあ観てろよ、絶対に俺が勝つから‼︎』と私達を見据え力強い口調ではっきり言ってくれました。

名人戦当日
豪華なホテルの大広間でテレビでしか見たことのないような方々を目の当たりにしながら少し緊張しながらも採譜係をこなします。
試合は滞りなく進んでいきすでに安藤さんは準決勝まで駒を進めていました。
『やっぱり安藤さんはすごい!』
採譜係の仕事も終えた私達は安藤さんの後ろに張り付き応援します。
最終戦のオーラス、決勝に進むための安藤さんの条件は決して難しいものではないのですがアガリきらなければなりません。
安藤さんは4-7ピン待ちのチンイツをテンパイします。
これをアガれば決勝戦進出です。
盲牌をする安藤さんの指に力が入り、後ろに張り付いている私達にも力が入ってしまいます。
『安藤さんツモれ!!』
そこに対面の小島武夫先生からリーチが入ります。
小島先生もこのリーチをアガれば決勝進出です。
たった数分間の2人のめくり勝負でしたがとても長い時間のように感じました。
安藤さんは最終のツモ番で7ピンを力強く手元に引き寄せ『ツモ、3000,6000!』
と発声しました。
『うぉぉぉぉ!!安藤さんマジで決勝まで行ったぞ!』私と小川さんは手を取り合いその興奮を隠しきれません。

決勝戦
多くのギャラリーが見守る中それは静かに始まりました。
新人の私達はそれを近くで観ることは許されません。
遠巻きに私達はどうだ?どうなった⁈と気が気ではありません。
そして最終局が終わり拍手と共に優勝者の名前が告げられます。
『第19期名人位は安藤満プロです!!!』
拍手喝采。

すごい‼︎本当にこの人は有言実行したんだ!!!
カッコ良すぎる!!
それは安藤満さん39歳のことでした。
そこから安藤満の亜空間殺法伝説の始まりとなったのです。
この話の詳細はまた別の機会にするとして話を私達のことにもどしましょう。

安藤さんが名人位を獲得したその年の私達の1年目のリーグ戦。
B 2リーグこそは2人揃って昇級し、その日小川さんと私は『ま、当然だな!』くらいのことは思っていましたし、この程度の奴等には負けようがない!くらいのことを話しながら2人で祝杯をあげました。
若さというか世間知らずというのか本当に生意気でした。
2年目以降のB 1では降級こそしないものの惜しい所で昇級もできずに残留という結果が数年続くことになります。
そこそこやれているという実感もあるものの何かが足りない。
決定的な何かが足りてないのだ。
こんなところで足踏みしてる場合ではないのだ。
そんな焦燥感を抱えながらそれでも安藤さんが待つA 1リーグへの道をただひたすら不器用に真っ直ぐに目指していました。

第4回連載へ続く...

COLUMN

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