一般社団法人 グローカル政策研究所

阿部孝則の『寡黙な麻雀王者』

第1回連載

コロナ禍という先の見えない状況ですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。
今回は私がプロ雀士なるものを目指すきっかけとなったお話をしようかと思います。

話は35年程前に遡ります。
都立高校を卒業した私は進学も就職もせずただぷらぷらしていました。
将来のビジョンややりたい事が見つけられず正に先の見えない未来を漠然と見ているそんな少年でした。小さい頃から、美術とかアートに惹かれ、将来はなんとなく「美大で勉強したいな」などと思っていたのですが、それも淡い夢。世の中の面倒くささやままならなさに、ただただ過ぎ行く日々の中で、メンタルのぷー太郎に甘んじていたのかもしれません。
しかし何もしないというわけにはいかないので、ともあれ麻雀店でアルバイトをすることにしました。
麻雀は学生時代から大好きでかなりハマっていたのでこれならできそうだし楽しそうと思ったのでしょう。楽しみながらおカネも稼げれば、それが一番いいよなあ、ってわけです。
今思えば非常に安易な考えです。
現実はそんな甘いはずもなく趣味や遊びでやるのと仕事でやるのは訳が違います。
当時の雀荘は、今から見ると、カオスと臭いと不健康の塊でしたね。ドアを開けたとたんに、人いきれと食べ物、たばこの臭いが空気の壁のように押し寄せます。部屋の片隅には、ラーメンやカツ丼などの丼やお皿が積み上げてある。気の利いた女子店員さんなどは、ちゃんと洗って返すのですが、ちゃらんぽらんなスタッフは米粒や乾いた麵が付着したまま無造作に放置します。タバコも凄かった。灰皿はどれも吸い殻の山ですし、雀卓で四人が同時に煙を吐いている光景も珍しくありませんでした。
まあ、こんな環境にも慣れがありますから、1週間もすると平気になりましたが、勤務はきつい。時間は不規則、給料は安い。まあ、これらは仕方がないのですが、変な客さんには参りました。こうした人々の生態?については、後日、たっぷりご紹介していきます。
結局、麻雀店のアルバイトは半年しか持ちませんでした。
大人ぶっていてもまだまだ十代で幼稚だった私は精神面でもかなり疲弊していました。まったく燃焼感も達成感もない。何をやりたいのか、何が面白いのかから始まって、「結局、俺って何よ?」の繰り返しです。青春て悩むことが特権だ、とばかり悩みに甘えていたこともあったんでしょうね。

しかしまだ10代の少年はここから何年、何十年と悩み続けることなど想像もしていませんでした。

麻雀店を退店した私はこの先どうすればいいかと考えました。
手に職をつければ何とか生きていけるか?と非常に安易な考えではありますが、美容室に見習いとして働くことになります。東京西部のとある有名店で修業を始めたのです。
麻雀のことは一切忘れ技術者になることを目標に頑張っていました。
その日も一番下っ端の私は、お店の備品やら先輩方の昼食などなど山ほどの買い出しをしてるところでした。
すると『あべちゃん‼︎』スーパーの中で誰かが僕を呼び止めます。
『久しぶりだねぇ何してるの?』
見れば雀荘アルバイト時代のお店の常連さんでした。
『あ!お久しぶりです!』
私は簡単に自分の現状を話しました。
すると『いついつ○○で雀荘オープンするから一回遊びに来てよ!』
とのことでした。
買い出し途中の私はオープンする雀荘の大まかな場所だけ聞き今度行きますねとその場を後にしました。
うーん…とは言ったもののなぁ…。
私は心を入れ替え真面目に技術者を目指すんだと決めたばかりです。
いやいや!やはり今は遊んでる場合じゃない!と2週間ほどはその誘惑に負けないよう頑張っていました。
しかし意志の弱い私が誘惑に負けるのはそう難しい話ではありませんでした。
その日仕事が終わると家路とは反対方面の電車に乗り胸を躍らせながらその雀荘へと向かってしまったのでした。
数ヶ月ぶりの麻雀、やっぱり麻雀は楽しい!
ちゃんと仕事も頑張って麻雀も適度に楽しめば良いんだ、難しいことじゃない。
2回目に来店したときだったでしょうか、オーナーから『こちらがウチに専属で来てもらってる安藤満プロ!こんな機会そうそう無いから勝負してもらいなよ!』と紹介されます。
高校時代の友人が麻雀プロに詳しくその影響で私も有名な麻雀プロ数名の名前は知っていましたが安藤満なんて聞いたことありません。
その時はあまり有名ではないのかな?そんな失礼なことを思ったりしていました。

しかしこの瞬間から人生が大きく変わることをまだ10代の少年は知らないのです。

第2回連載へ続く...

COLUMN

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