一般社団法人 グローカル政策研究所

町田徹 21世紀のエピグラム

「利他の心」――。
神格化された稲盛氏の光と影

 「人間としての正しい生き方、あるべき姿を示す」ー。会社の公式の立場で日頃から「利他の心」を説き続けて、わずか一代で、京セラを連結売上高1兆8000億円と日本有数の巨大企業グループに育て上げた稲盛和夫(いなもり・かずお)氏(以下、敬称略)が8月24日、京都市の自宅で90年の生涯を閉じた。死因は老衰だった。

 稲盛の経営者人生は賞賛に溢れている。日本には数多くの経営者がいるが、「経営の神様」と称されたのは、昭和を生きたパナソニックの創業者・松下幸之助氏と、稲盛ぐらいだ。故郷・鹿児島でも、本拠地・京都でも、そして京セラでも稲盛は礼賛されている。
 確かに、2度の中学受験や大学受験に失敗した少年期、今でいうブラック企業にしか就職できなかった青年期。稲盛が経験した挫折は筆舌に尽くし難い。立身出世物語にはうってつけの前半生と言えるだろう。
 逆境に堪え、稲盛は1959年、数人のコア・メンバーと京都市中京区に、資本金300万円で京都セラミックを創業。1972年に東証第2部に上場した。当時、大学生だった筆者は、古代土器以来の歴史がある焼き物をファインセラミックスと呼ばれる新素材に昇華させ、新たなビジネスを切り開く新星・京セラの登場に胸を躍らせたことを、まるで昨日のことのように覚えている。その後も稲盛は立ち止まることなく、今年3月末現在で、299社、従業員8万3001人を擁する大企業グループに育て上げた。こうした業績は文句なく偉大なものと言える。

 稲盛の成功の秘訣はどこにあったのだろうか。筆者は、ファインセラミックス分野の開拓と並んで、京セラがビッグビジネスになった理由を2つ挙げておく。一つはヤシカ、米AVX、三田工業などで繰り返したM&A(企業の合併・買収)による業容の拡大である。稲盛のもとには数多くの案件が持ち込まれたが、実際に手を出したのは、その中のほんの一握りの案件だったはずだ。その意味で、稲盛はビジネスの将来性を見通す慧眼の持ち主、つまり目利きだった。
 もう一つは、6,7人単位の小グループに会社を分けて社内外とのモノやサービス、おカネのやり取りを把握する「アメーバ経営」という管理会計の手法を生み出したことだ。このアメーバ経営は、京セラグループの経営コンサルティング・ビジネスのコアにもなっており、部外者が実像を知ることは難しい側面があるが、筆者はJALの再建時の取材で概要を学ぶ機会があった。管理部門を含めて実際におカネのやりとりがあるわけではないが、ここにある種の仮定を置いてカネ勘定をできるようにすることがミソなのだ。その結果、従業員ならば誰であれコスト感覚を身につけさせることが可能になるのだ。
 もちろん、「アメーバ経営」はあくまでも会社のコスト管理の手法なので、成長性があり売り上げ拡大が見込める事業の開拓に役立つものではない。そこは別のモノサシが必要だ。とはいえ、採算が赤字でも新規ビジネスを開拓すれば、経営に寄与しているとの誤解をしがちだったJALのような企業の社員には大きな特効薬になった事実がある。

 だが、ここではあえて、稲盛の華やかな人生の後半を彩るDDI(KDDIの母体の一つ)の設立と、日本航空(JAL)の再建には別の大きな力が働いていたことを指摘しておきたい。
 前者では、国策となった通信自由化を成功させるため、ライバルNTTが温めていた東京‐大阪間の広帯域・大容量無線網のプランが密かに提供されたばかりか、政府やNTTからその事業化を支える人材が何人も送り込まれていた事実がある。
 元来、稲盛はシャイな人物だったのだろう。自分のことを積極的に声高に話すようなことのない人物だった。しかし、稲盛本人が1990年代前半に新聞記者だった筆者の取材に応じた際、小さな声でぼそぼそと漏らしたことがある。「(京セラと違い、)規制産業であるDDIの経営は楽だ」というのである。参入規制の高さや事業分野の限定、料金規制の厳しさ…。当時の規制産業はライバルが打ち出す戦術も想定の範囲内にあり、稲盛の目には楽なビジネスに映っており、その関心は誰をトップに据えて経営を委ねるかに絞られていた。

 一方、会社更生法の申請を受けて破綻したJALの再建は民主党政権下で進んだ案件だ。が、実は、その再建のマスタープランは自民党政権下で米系コンサルティング会社が策定したものだった。国内で大手のライバルと言えば、ANA(全日本空輸)グループぐらいだし、破綻で膨大な負債を棒引きされたうえ、赤字路線からの撤退というフリーハンドもあった。こちらも、手綱さえ締めて日々の経営を着実に行わせれば、会社がⅤ字復活することは容易な話だったのだ。
 稲盛の後半生の成功物語はそうした用意されたレールの下で実現した面が大きい。筆者はジャーナリストとして、現場で、多くの人材が人知れず稲盛の成功物語を支えた事実を目撃した。
 ただ、その一方で、稲盛の側近の椅子の多くはイエスマンに占められていた。そこには「経営の神様」の限界を感じずにはいられなかったのも、また事実である。
 最後に、KDDIの元幹部が稲盛の死を知り、「遠くから見れば、綺麗に見える大きな山のような人だった」と漏らしたことを記しておく。その言葉には、決して仕えやすいボスではなかったトップに対する万感の思いが込められていた。

2022年09月12日

COLUMN

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